60年のあゆみ 1954-2014

 一般社団法人日中経済貿易センターは、2014年11月を以て創立60周年を迎えました。1949年に中華人民共和国が成立した5年後に、深い見識と高い志を持たれた政治・経済界の大先輩方のご尽力により、1954年11月、「日本国際貿易促進協会関西総局」として設立しました。1984年に、中国との経済貿易促進に専念姿勢を明確にするため、「日中経済貿易センター」と改称しました。

1954年11月13日

1954年~1971年

1972年~1991年

1992年~2001年

2002年~2014年

1954年11月13日「日本国際貿易促進協会関西総局」設立

【名称】日本国際貿易促進協会関西総局
【関西総局長】菅野和太郎
【設立準備人(6名)】宇田耕一、菅野和太郎、田島正雄、竹中雄三、川勝傳、松原與三松。
【設立日】1954年11月13日(大阪東区の大阪クラブにおける設立総会の開催

設立準備人

 設立までの具体的な経緯については、1975年6月、菅野和太郎会長が機関誌にて次のように記している。

 事務局の資料によると、1954年(昭和29年)7月16日に有恒クラブにおいて私や森井庄内氏、藤田敬三氏らが呼びかけ人になって最初の国貿促関西本部設立のための初会合を開いている。

 この会合の申し合わせで、同年8月14日に東京より村田省蔵氏を招いて国貿促関西本部設立準備会を開くことになり、この時の案内状をみると、この準備会の世話人として次の6名の名前で案内状が出されている。

 菅野和太郎、川勝伝(南海電気鉄道㈱社長・当時の日本スピンドル社長)、田島正雄(日本太平洋問題調査会理事長・故人)、竹中雄三(竹中㈱社長・故人)、宇田耕一(淀川製鋼㈱社長・故人)、松原與三松(日立造船㈱社長・故人)(順序はその時の案内状の通り)。

 この会合の結果、多数の方々に設立準備委員をお願いすることになり、その依頼の文書もこの6名の名前で出ている。

 この設立準備委員会は同年8月23日に大阪クラブで開かれ、特別小委員会を設立することになり、再びさきの6名の世話人の連名で次の9名の人に特別小委員の依頼文書を出している。

 駒村資正、稲畑太郎、植田喜代治、森井庄内、伊藤道次、藤田敬三、功力寅次、三木正三、小泉計太郎。

 この小委員会は同年8月27日大阪クラブで開かれている。

 このような経過を経て11月13日大阪クラブで正式に設立された。

(「友好と貿易」第53号(1975年6月)より)

 因みに、日本国際貿易促進協会関西本部の規約(昭和41年1月付)によると、「当時、東京で村田省蔵氏が会長となって『日本国際貿易促進協会』を設立した関係で、関西は『日本国際貿易促進協会関西総局』として発足したが、村田氏の他界を機に東京と分離独立し、高碕達之助氏を顧問に迎えて『日本国際貿易促進協会関西本部』として新しく発足した」、とある。

 このように、当センターは1949年に中華人民共和国が建国されてからわずか5年後に発足しているが、その時代的背景として、当センターの「20年のあゆみ」には次のように記されている。

■戦後の日中貿易~東西緊張緩和により好転

 ふりかえって戦後の日中貿易は、1949年10月の中華人民共和国成立直後から漸次胎動の兆が生まれてきていたが、翌1950年、朝鮮戦争の勃発を契機に、アメリカ政府の指図によって中国向け輸出が全面的に禁止され、日中貿易は戦後の創成期から厳しい困難に直面することとなった。

 しかし1951年7月の朝鮮戦争休戦会談の開始とともに、東西緊張の緩和と東西貿易促進の国際世論が急速な高まりをみせ、このような国際情勢の好転を背景に、1952年4月モスクワにおいて「国際経済会議」が開かれた。この会議には49ヵ国471人の代表が参加し、各国の民間人相互間の努力によって社会体制の相異を越えて東西の緊張緩和のために東西貿易促進を図ることが協議され、その具体化のために各国に「国際貿易促進委員会」を結成することが決定された。この国際経済会議にはわが国からも代表を派遣すべく故村田省蔵氏、故石橋湛山氏(のち首相、日本国際貿易促進協会総裁)らによって「国際経済懇談会」が組織されたが、政府の渡航許可がえられず参加不可能となり別に欧州旅行の途次モスクワ入りを果たした高良とみ、帆足計、宮腰喜助の三国会議員が日本代表として参加することができた。

■1952年から日中両国で次々と経済団体・会議が発足

 中国では1952年5月、中国国際貿易促進委員会が発足しまた同時期にわが国では経済界のみならず政界、業界、労働界など広範な階層を包含した国民運動組織として「日中貿易促進会議」が東京・大阪はじめ全国各地に結成された。大阪では「関西日中貿易促進会議」が結成され、議長=宇田耕一氏、副議長=藤田敬三(大阪市大教授)、広瀬省三、菅原正人氏らを中心に活発な活動が行われた。日中貿易促進会議はその結成当初から事業目的の一つとして、東西貿易促進の強力な組織として「国際貿易促進委員会(仮称)の設立」を掲げていた。関西日中貿易促進会議は関西総局設立とともに発展的に解消した。

 ■民間貿易協定が成るものの依然障害が存在

 一方、日中貿易の具体的動きとしては、1952年6月1日、第一次日中(民間)貿易協定が高良、帆足、宮腰の三氏と中国国際貿易促進委員会との間に締結され、続いて翌53年10月には第二次日中(民間)貿易協定が日本側=中国通商視察日本議員団と中国側=中国国貿促委との間に結ばれた。第二次協定には関西から宇田耕一、川勝傳氏らが参加した。52年には東京・巴商事の桜井英雄氏によって3億8千万円の輸出入等額のバーター契約が民間契約第1号として契約され、また同年10月には中国政府により「日本船就航暫行弁法」が公布され、日本船の中国航路就航の途が開かれた。

 しかしながら第一次、第二次協定が目標とした往復それぞれ3,000万英磅の貿易額は、当時のココム(49年11月)、チンコム(51年5月にそれぞれ成立)の厳重な禁輸の壁、人事往来、決済などあらゆる面での人為的傷害のために、その達成率は極めて低い水準に止まらざるをえなかった。第二次協定の期間切れと第三次協定締結の時期が迫るにつれ、このような人為的諸障害をとり除き、日中貿易を正常な軌道の上に発展させるために、わが国経済界の東西貿易促進のエネルギーを結集した強力な日本国際貿易促進協会の設立を内外から強く求められていたのである。

※ 第二次日中(民間)貿易協定

  1. 本協定の有効期間を1953年10月29日より1954年12月31日までとし、各々の輸出金額は3,000万ポンドとする。
  2. 各々の輸出商品は甲類(日本:鋼板、建材、大型機械、遠洋航海用船舶など。中国:鉄鉱石、石炭など)、乙類(日本:車両、医療器械、化学工業原料など。中国:塩、耐火粘土、羊・豚・羽毛、雑豆など)、丙類(日本:農機、理化学実験機、ラジオ受信機。中国:滑石、石墨、生漆、松脂、甘草など)に分類し、各類の総額に対するウェイトは甲類35%、乙類40%、丙類25%とする。
  3. 双方は物々交換を基礎とし、価格計算の際はポンドを使用する。
  4. 具体的な商談や契約は、日本側商工業者が中国進出口公司らとの間で行う。
  5. 中国の輸出品は中国商品検験局が、日本の輸出品は日本の商品検査機関が品質、重量検査を行い、その検査表をもって代金支払いの条件とする。荷卸し港において輸入側が再検査を行うことができる。
  6. 契約に関する一切の紛争は双方の協議により解決させる。もし協議を経ても解決できない場合は、双方が仲裁委員会を組織し、仲裁を行う。本協定の有効期間内において発生した事案は、中国国内において仲裁を行う。

■共通認識は「日本の戦後復興には日中貿易の発展が必須」

 このように当関西本部設立当時の情勢は、一方では朝鮮休戦会談の成立(53年7月)からインドネシア休戦ジュネーブ会議(54年7月)バンドン会議(55年4月、日本政府首席代表=高碕達之助氏)へと続く東西緊張緩和の時代の流れ、日中関係正常化と日中貿易への国民的期待の大きな高まり、日中貿易の具体的取引が揺籃の時期から一つの飛躍の時期に入りつつあったことなど明るい前途が見通せた反面、一方では「東西両陣営の対決」「米中対決」を軸としたアメリカの極東政策の新しい展開の下で、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約とともに「日台条約」の締結という「歴史の虚構」の選択を迫られるなど、日中関係正常化と日中貿易の発展にはきわめて険しい前途が予想される状況であった。

 わが国戦後経済の復興と平和的繁栄のためには対米貿易偏重の是正、日中関係正常化と日中貿易の発展が必須との考えが当時協会設立に参加した方々の共通の認識であった。

■設立に積極的に参画された関西の主要な経済人

 このような日中貿易初期の困難な時期において、しかも世上なお根深い偏見や中傷のあった時期に、日中関係の正常化と日中貿易の発展を歴史の必然として捉え、不動の確信のもとに当関西本部設立に積極的に参画され、また厚い支持と協力を惜しまれなかった数多くの関西の経済人の中には次のような人が含まれる。(肩書は当時)

杉道助氏(大阪商工会議所 会頭)、吉野孝一氏(大阪工業会会長)、大原総一郎氏(倉敷レイヨン社長)、伊藤道次氏(堺化学社長)、市川忍氏(丸紅社長)、駒村資正氏(江商社長)、浅田長平氏(神戸製鋼所社長)、石原廣一郎氏(石原産業社長)、森井庄内氏(日本タルク社長)、藤田敬三氏(大阪市立大学教授)

 また長年にわたり関西本部の事業に格別のご支援ご指導をいただいた人々の中には、松村謙三氏、高碕達之助氏、岡崎嘉平太氏の諸氏がおられる。

 これら諸先輩の卓越した識見と努力をわれわれは銘記しなければならない。

設立時の功労者

日中経済貿易センター 歴代会長

歴代会長

1954年~1971年

第一部:日中貿易の黎明期~日本国際貿易促進協会関西総局の誕生

 1954年から国交正常化までの当センターの活動内容を見ると、創立当初から代表団の受け入れや派遣を積極的に行い、民間団体として、日中貿易の円滑化を実現すべく両国政府へ要望していた。

 この期間の活動は、国交正常化前の段階において当センターが日中貿易を推進する重要な役割を果たしていることを示すもので、現在の日中貿易の礎とも呼べよう。

中国紅十字の会代表団① 1954年10月 「中国紅十字の会代表団」(団長:李徳全会長、副団長:廖承志氏)が来日。

新中国初の公式訪日代表団。

 

 

第三次日中(民間)貿易協定② 1955年5月 「第三次日中(民間)貿易協定」を締結。

 3月には中国訪日貿易代表団が来日し、5月4日、第三次の日中(民間)貿易協定が東京で締結された。当時の鳩山首相はこれに支持と協力を表明した。

 

第一次日本訪中実業団③ 1955年9月 「第一次日本訪中実業団」を派遣。

 当関西総局など国貿促各団体が編成し、初の日本実業団が訪中。団長は日本国際貿易促進協会 田島正雄副会長。

 

 

大阪で「中華人民共和国展覧会」を開催④ 1955年12月 大阪で「中華人民共和国展覧会」を開催。

 第三次日中(民間)貿易協定の相互に見本市を開催するという取決めに基づき、10月17日から東京で、12月1日から大阪で、「中国商品展覧会」が初めて日本で開催された。大阪・中之島の会場を訪れた参観者は15日間の会期中123万人をかぞえた。

 

 

北京で初めて「日本商品展覧会」を開催⑤ 1956年10月 北京で初めて「日本商品展覧会」を開催。

 毛沢東主席、周恩来総理も来場し、北京会場では126万人が、12月の上海会場では168万人が参観した(写真は上海会場)。

 

 

北京会場を訪れた毛沢東主席と毛主席からの題詞
日本商品展覧会を見て非常に良いと思いました。日本人民の成功をお祝いします 毛沢東」と中国語で書かれている(本訳文は題詞の封筒に印字されたもの)。

 

1957年3月 「関西経済親善使節団」が訪中。

 杉道助大阪商工会議所会頭が組織し、中国国貿促の杉会頭宛の招電により実現した初の財界代表団。団長は吉野孝一大阪工業会会長、副団長は松原與三松氏、森新治氏。日中貿易を阻む諸障害を打破し、長期安定した貿易を日中双方が希求するという内容の共同声明を発表。

⑦ 1957年12月 当関西総局が初めて受け入れた中国の技術交流訪日団「中国化学工業視察団」。

団長は侯徳榜中華全国自然科学専門学会連合会副主席。計14名が来日した。

 

 

⑧ 1958年2月・4月 広州、武漢で「日本商品展覧会」を開催。

 56年につづいて2月広州(左)で、4月武漢(右)で「日本商品展覧会」を開催し、それぞれ76万人、74万人が参観した。

 

1958年8月 日中貿易再開バス陳情団が大阪を出発。

 同年5月、長崎国旗事件が発生し、日中貿易が全面的に中断。当関西総局は「日中貿易全面停止に対する当面の打開策について」を発表し、これが全国的な運動方針となった。8月、日中貿易再開バス陳情団が大阪を出発し、上京。東京にて「日中経済関係打開全国業者大会」が開催された。

 

⑩ 1959年9月 石橋湛山元首相が周恩来総理と会見。

共同コミュニケを発表し、政経不可分の原則を認め合った。

 

 

 

1960年10月 高碕達之助氏が訪中し、周恩来総理と会見。

 同年9月、当関西本部は池田首相宛に、高碕氏の訪中時、中国側と有効な接触を行うことを含んだ要望書を提出していた。

 

 

 

⑫ 1961年4月 友好商社25社が「第9回中国輸出商品交易会」(広州交易会)に参加。

 当関西本部は60年末から他の友好団体とともに貿易三原則に基づく友好商社の推薦を始めた。61年4月、25の友好商社が日中貿易中断後初めて招待され、以後、友好貿易の主な取り引きの場として毎年春・秋の交易会に多数の商社が参加することになった。

貿易三原則とは、1960年8月に訪中した日中貿易促進会の鈴木一雄専務理事を通じて、周恩来総理が提示したもの。これにより、日中貿易が2年ぶりに再開されることになった。

貿易三原則

1.すべての協定は今後双方の政府が締結してはじめて保障がえられる。
2.政府間協定のできる前でも、友好的な企業と民間個別契約はできる。
3.個別的な配慮を続けることは考慮できる。

1962年11月 LT貿易が始まる。

 高碕達之助氏と廖承志氏の間で5年間の長期、総合、延べ払いを基本内容とする「覚書」に調印。通称「LT貿易」始まる。同年9月、当関西本部は池田首相に高碕氏の訪中に関して延払いの即時適用を要望していた。

 

1962年12月 中国国際貿易促進委員会と「日中貿易拡大に関する議定書」に調印。

 12月、当関西本部の木村専務理事(左写真)、日中貿易促進会の鈴木専務理事、日本国際貿易促進協会の宿谷会長と、中国国際貿易促進委員会との間で「日中貿易拡大に関する議定書」に調印した。この「議定書」における友好取引は、LT貿易と共に日中貿易拡大の車の両輪となった。本議定書は、当関西本部発足以来、初めての国際的取り決めである。

 日中貿易拡大に関する議定書 (概要)
1.日中民間の友好貿易関係の強化。
2.商品展覧会の相互開催。
3.経済貿易関係者の人事交流促進。
4.技術交流の推進。
5.両国銀行間での信用状の直接開設。

1963年6月 初の中国向けプラントとしてクラレ・ビニロンプラントが成約。

 

1963年10月・12月 北京・上海で「日本工業展覧会」を開催。

 10月に北京、12月に上海で開催。それぞれ123万人、125万人が参観した。

 

 

 

⑰ 1964年6月 大阪にて「中国経済貿易展覧会」を開催。

 4月10日~30日に東京で、6月13日~7月5日に大阪で開催。会場前は参観者のバスで埋まり(左写真)、中国製高級乗用車「紅旗」(右写真)などが注目を集めた。大阪会場の参観者は152万人。

 

1965年4月 業界をあげて「吉田書簡」に反対。

 1964年11月に成立した佐藤内閣は、1965年2月「吉田書簡」を理由に対中延払いに輸銀を使用しないと言明した。このため日立造船の貨物船、ニチボーのビニロンプラント等の仮契約は失効の事態に陥った。この事態に当関西本部はバスによる大阪→東京の陳情団を編成、日中貿易関係7団体と共に東京で「輸銀融資完全実施要求、東西貿易危機打開緊急全国業者大会」をひらき、決議文を政府に提出した。

 

⑲ 1965年10月・12月 北京・上海にて「日本工業展覧会」を開催。

日中貿易3団体と中国国貿促の取り決めにより、10月に北京で、12月に上海で開催。参観者はそれぞれ65万人、81万人。

写真2:北京会場を訪れた周恩来総理を迎える森井庄内氏ら

 

 

⑳ 1967年2月 国貿促6団体、中国国貿促との間で「日中両国人民の友好貿易促進に関する議定書」に調印。(写真は調印する木村専務理事。)

 

 

㉑ 1967年4月 関西本部訪中友好商社代表団が訪中。

団長は森井庄内氏。中国国貿促と共同声明に調印。

 

 

㉒ 1968年3月 周恩来総理、国貿促6団体代表団と会見(LT貿易からMT貿易へ)。

 日本日中覚書貿易事務所の古井喜実氏、岡崎嘉平太氏、田川誠一氏の三代表は覚書貿易会談コミュニケに調印、同日周恩来総理と会見した。

 

㉓ 1970年4月 周恩来総理、国貿促7団体と会見(「四項目の条件」を提示)。

歩きながら談笑する周総理(中央)と木村専務理事(前右二)

 1969年11月の「台湾・南朝鮮の安全は日本の安全にとって不可分かつ緊急である」とした佐藤・ニクソン共同声明後の新情勢に対応して、周恩来総理は日中貿易についての四条件を提示した。

 当関西本部はこれを確認し、抵触企業の貿易復帰に積極的に協力することを決定。その後、次々と受け入れ企業が拡大した。

日中貿易の四項目の条件

中国側は次の状況の一つに該当するメーカー・商社・企業とは貿易の交流を行わない。
1.蒋介石一味の大陸反攻を援助し、朴集団の朝鮮民主主義人民共和国に対する侵犯を援助するメーカー・商社。
2.台湾と南朝鮮に多額の資本投下を行っているメーカー・商社。
3.米帝国主義のベトナム、ラオス、カンボジア侵略に兵器、弾薬を提供している企業。
4.日本にある日米合弁企業及び米国の子会社。

 

1971年9月 日本全国の各経済界に先立ち、関西財界代表団を派遣。

 広州、上海、北京を訪問。佐伯勇実団長(大阪商工会議所会頭)らが、周恩来総理、李先念副総理、郭沫若中日友好協会名誉会長、白相国対外貿易部部長、劉希文中国国際貿易促進委員会代表らと懇談した。

 

 

1972年~1991年

第二部:日中国交正常化を迎え、中国の改革・開放の推進と共に歩む

 1972年、日中国交正常化が実現した。この前後から、当センターで受け入れる訪日団が急増する。78年の日中平和友好条約の締結も追い風となり、ほぼ連日、中国から大小様々な視察団や対日輸出商談ミッション(土畜産、繊維、糧食、工芸、軽工業品など年平均100グループ)が当センターを訪れていた。70年代は中央政府の派遣する代表団が主であったが、徐々に地方政府も専門的な視察団を組織するようになり、沿海部から内陸部まで全国各地から来日した。

 また、当センターの事業の特徴として、80年代には日本と中国の双方で開催する展示商談会が増え、多い時は一ヶ月に4~5件の展示会の開催に協力することもあった。中国各地法政府・団体の駐日事務所の開設にも協力を行った。

 この時期、中国では深圳等が経済特区となったり、中外合弁企業法等の経済貿易関係の法整備が進んだりするなど、経済貿易体制が整い始め、日中間の往来も非常に活発になった。

◆日中国交正常化慶祝大宴会 木村一三氏が日本貿易業界代表して挨拶演説

 1972年9月29日、北京において、日中両国政府により「日中共同声明」が発出された。
 同年10月23日、中国側の主催により、日中国交正常化を慶祝する祝賀会が北京、人民大会堂で開催され、木村一三氏が日本貿易業界代表の挨拶演説し、一千名近い大宴会となった。
写真:挨拶の後、乾杯する木村一三氏と周恩来総理

① 1972年6月 「中国造船工業視察団」が来日。
 団長は程継賢中国機械進出口総公司副総経理。当関西本部事務局にて、松原会長、森井副会長らと懇談した後、日立造船本社を訪問し、永田社長らと会談した。2ヶ月に亘り、日本の造船所、造船関連産業及び代表的な船舶を参観した。

 

 

② 1974年7月 大阪にて「中華人民共和国展覧会」を開催。
 7月13日~8月11日までの30日間、大阪の万博記念公園で開催。団長は李永亭中国国貿促副主任。王耀庭中国国貿促主任も主宰のため来阪し、松原会長らと歓談した。第一展示館正面入り口には「中日両国人民世世代代友好下去」と書かれ、劇場では曲技や演劇が上演された。会期中の参加者数は延べ260万人余り。本展覧会は中国が外国で開いた最大規模のものであった。

 

 

 

 

 

③ 1974年9月 日中定期航空路が開設。
 日中国交正常化2周年に当たる9月29日、日中定期航空路が開設され、日本航空・中国民航双方の一番機が就航した。また、日中双方それぞれがこれを記念する友好親善代表団を交換派遣した。

 

 

 

④ 1974年11月 当関西本部の主催で初めて、天津で「日本印刷機械・包装機械展覧会」を開催。
 11月18日から二週間に亘り、当関西本部単独主催の初の専業展として開催。開幕式にて森井庄内団長が挨拶。
会期中、解学恭天津市革命委員会主任、廖承志中日友好協会会長、謝鑫鶴軽工業部部長、劉希文対外貿易部部長補佐ら、中国の指導者が会場を訪問し、森井庄内団長をはじめとする展覧会幹部と懇談した。中国国貿促天津分会の計らいにより、現地の工場や学校、病院を参観し、出展者約270名のうち約75%が中国初訪問であり、新中国を理解する良い機会となった。

⑤ 1974年11月 関西本部創立20周年記念式典・祝賀パーティを開催。
 11月27日、ロイヤルホテルにて、中国国際貿易促進委員会友好訪日代表団団長の王文林同委員会副主任らを招いて開催。会員各社や各界代表など約350名が参加した。王副主任より廖承志中日友好協会会長題辞の旗が贈られた。

 

 

⑥ 1975年11月 「日本電子工業友好訪中代表団」を派遣。人民大会堂で懇談する小林団長と谷牧副総理。
 団長は小林宏治日本電気㈱社長で、日本の総合電子工業メーカーから15名が訪中。北京、洛陽、南京、上海を訪問し、テレビ・ラジオ、レーダー、自動化計測・制御機器、電子計算機などの電子工業関連の工場・施設を見学した。

 

 

⑦ 1977年4月 「関西経済訪華友好使節団」が李先念副総理、王震副総理らと懇談。
 団長は上枝一雄会長で、団員は全て当関西本部の理事会社の代表。北京、杭州、上海を訪問し、李先念副総理、王震副総理、李強対外貿易部部長、王耀庭中国国貿促主任、廖承志中日友好協会会長らと懇談。

 

⑧ 1977年8月 「国貿促関西本部土畜産貿易訪中団」を派遣。
 当関西本部古賀新蔵専務理事を団長とする13名が、約2週間に亘り、北京、大連、長春、ハルピン、伊春を訪問。製紙原料となるチップを重点として新規輸入商品を開拓するため、森林資源と林産工業の実情を視察した。

⑨ 1977年9月 「中華人民共和国展覧会友好訪日代表団」が来阪。
 同年5月に名古屋、7月に北海道、9月に北九州で行われる「中華人民共和国展覧会」に伴い、柴樹藩対外貿易部副部長、王耀庭中国国貿促主任、劉希文対外貿易部副部長らを団長とする各代表団が来日。各団は大阪にも立ち寄り、当関西本部らが歓迎会を催した。
(写真は劉希文対外貿易部副部長(前列中央)の歓迎会。)

⑩ 1977年10月 「中国造船工業代表団」が来日。
 劉放中国造船学会理事長代理・第六機械工業部副部長一行が来日。写真は日立造船㈱広島工場の様子。

 

 

⑪ 1977年10月 上海にて「日本造船工業展覧会」を開催。
 四人組の失脚以降、中国の新体制が工業、農業、化学、国防の分野を強化していることに対応するため、当センターは造船関係に注力し、日中造船工業会の交流を促進。本展覧会は10月20日~11月3日まで開催。総勢250名の展覧団の団長は古賀繁一三菱重工業㈱相談役。114社109小間が出展し、参観者は約7万人と大盛況であった。
右写真は同展覧会の事務局(当関西本部内に設置)にて、上枝会長(右)、劉希文対外貿易部副部長(右二)ら。

⑫ 1978年3月 「中国経済代表団」を受け入れ。
 団長は林乎加上海市革命委員会副主任・前国家計画委員会副主任・党中央委員。大阪で7団体による歓迎レセプションを開催。林副主任は事務局にも来訪し、親しく懇談した。
(前列中央が林乎副主任)

⑬ 1978年10月 鄧小平副総理らが来阪。
 10月22日、日本政府公賓として中国空軍の特別機で来日。卓琳夫人、廖承志全人代常務委副委員長、経普椿同夫人、黄華外相、何理良同夫人、韓念龍外務次官、王珍同夫人らが同行。10月23日、日中平和友好条約の批准書を交換。26日、京都に入り、奈良から大阪に入る。28日、松下電器産業㈱茨木工場を視察。29日、造幣局を訪問。同日、関西経済7団体による歓迎午餐会を開催した。(前列中央が鄧副総理)

松下電器産業㈱茨木工場にて握手する松下幸之助氏と鄧小平氏。

その時の揮毫「中日友好 前程似錦」とある。

 

 

 

 

⑭ 1979年3月 劉希文中日長期貿易協議委員会主任・中国対外貿易部副部長らが来日。
 3月17日~4月3日、1978年2月に締結された日中長期貿易取り決めの改訂協議に出席するため、「中国中日長期貿易協議委員会代表団」(4名)が来日。東京での協議後、来阪時の22日、関西経済7団体がロイヤルホテルで歓迎会を開催。一行は東京、大阪、京都、金沢、沖縄を訪問した。

 

 

 

⑮ 1979年4月 「中国軽工業代表団」(団長:梁霊光軽工業部部長)を受け入れ。
 一行は、4月12日から5月中旬まで日本に滞在し、軽工業品の各分野に亘り、技術協力、補償貿易、合弁など貿易の拡大について視察、懇談を行った。中国の現職大臣が具体的な貿易要務で来日するのは初めて。当関西本部はロイヤルホテルにて歓迎会を開催した。(前列左五が梁霊光部長)

⑯ 1979年9月 谷牧副総理らが来阪。
 谷牧副総理、許家屯江蘇省革命委員会主任、王耀庭中国国貿促主任ら一行17名が来日し大平首相以下日本政府要路との会談、財界首脳と懇談。松下電器産業㈱茨木工場など代表的な企業や工場を訪問した。9日に来阪し、10日に関西経済7団体で歓迎会を行った。(左三が谷牧副総理)

 

⑰ 1979年11月 「北京市友好代表団」が来阪。
 林乎加北京市革命委員会主任を団長とし、東京都との友好を深めることを目的に10月末に来日。11月に来阪し、関西経済7団体で歓迎会を開催した。

 

 

⑱ 1980年1月 李強対外貿易部部長らが来阪。
 日本政府の招待で李強夫妻一行が来日。当関西本部は北京の日本大使館より、「李強部長の大阪訪問に当たり、上枝会長、木村理事長と会談したい旨、中国側から正式に通知があったのでお知らせする。更に大阪では、日向方齊関経連会長、佐伯勇大商会頭、芦原義重関西電力㈱会長、川勝傳日中経済協会関西本部長との会談も行いたい」と連絡を受けた。来阪時、関西経済7団体で懇談会・歓迎レセプションを開催。(前列中央が李強部長)

⑲ 1980年4月 余秋里国家計画委員会主任らが来阪。
 外務省及び日中経済協会の招聘で、国民経済発展十ヵ年計画の円滑な達成と近代化の早期実現を図るため、日本の経済専門家や政府関係機関の幹部と経済建設について意見交換し、日中経済科関係の拡大発展を図ることを目的に来日。13日に関西に入り、14日、関西経済5団体で歓迎レセプションを開催。(前列中央が余秋里主任)

⑳ 1980年5月「日本カシミヤ業界訪中団」を派遣し、カシミヤの飼育地を初めて参観。
 当関西本部古賀新蔵専務理事を団長として、北京と内蒙古自治区などのカシミヤ産地を訪問。日中間にはカシミヤ原毛取引50数年の歴史があるが、正式にその飼育地参観のために招待されたのは初めて。カシミヤ業界の念願が叶い、中国最大のカシミヤ産地である内蒙古自治区伊克昭盟顎託克旗査布人民公社賽烏素生産大隊を訪問した。また、内蒙古土産畜産分公司との座談会を通じ、取引促進について意見交換を行った。

㉑ 1980年7月 「第三機械工業部技術教育視察団」を受け入れ。
 肖友明第三機械工業部副部長を団長とする7名が約3週間滞在し、技術教育の関連施設の視察、層別教育訓練の歴史と現状の調査、教育設備、教材、資料などを学んだ。

 

㉒ 1980年9月 「遼寧省産業視察団」を派遣。
 団長は上枝会長で、総勢16名が瀋陽、鞍山、大連などを訪問し、機械工場の工場診断、工場改造、生産合作などの可能性を調査。
(写真は古賀専務理事(右二))

㉓ 1981年11月 上海にて「1981年日本プラスチック・食品工業展覧会」を主催。
 当時中国は、従来の重工業偏重の経済建設の方針を改め、農業の発展を基礎に、軽工業・繊維産業を重視する方針を打ち出していた。その経済方針に則り、当センターと中国国貿促上海分会の間で本展覧会の開催を取り決めた。
11月11日~20日まで、会場は上海展覧館で、面積は約4,000㎡。出展者数は76社97.3小間(1コマ6㎡)。汪道涵上海市市長らも参観し、入場者数は約5万3,000人。展示品の売却率は金額、件数共に90%以上であった。

㉔ 1981年12月 谷牧副総理らが来日。
 東京で開催される「第2回日中閣僚会議」に出席するため中国代表団31名が来日。閣僚会議後の16日に京都入りして17日に来阪。ロイヤルホテルで歓迎会を開催。(前列左四が谷牧副総理)

㉕ 1982年4月 薄一波副総理の歓迎レセプションを開催。
 薄一波副総理・国家機械工業委員会主任一行14名が、東京、関西、九州の政府、団体、企業(電気、コンピューター、工作機械、ベアリング、油圧、電子工業、家電、自動車、造船、研究所など)を訪問。日本の機械工業の発展、技術改造、それに対する政府の政策や、日本経済の管理・経営についての理解を深めると共に、当時推進していた中国での工場改造及び設備更新で日本との協力方法を模索した。4月8日の来阪時、当関西本部と日中経済協会関西本部が歓迎会を共催。

㉖ 1982年5月 郝建秀紡織工業部部長が事務局へ来訪。
 「中国紡織工業部訪日代表団」(9名)が来日。同団は通産大臣と懇談後、東京、静岡、名古屋、金沢、福井、大阪、岡山を訪れ、紡績、織布、染色、メリヤスなどの工場を視察。日中繊維貿易はとりわけ長い歴史があり、関係者も多い上、紡織工業部部長の来日は初めてということで、来阪時、当関西本部がロイヤルホテルにて歓迎会を主催した。郝建秀部長は女性大臣で国務院の中でも最年少であった。(右が赫建秀部長)

㉗ 1982年6月 趙紫陽総理が来阪し、木村理事長と単独懇談。
 日本政府の招きにより、趙紫陽総理が5月31日~6月5日まで来日。東京、大阪、神戸、奈良、京都を訪問。3日、大阪府・市・大商の共催で歓迎晩餐会が催され、上枝会長らが出席。同日、ロイヤルホテルで木村理事長と単独会談を行った。

 

㉘ 1982年11月 汪道涵上海市長らが来日し、大阪にて夕食懇談会を開催。
 「上海市人民政府代表団」(8名)が、大阪府・市、横浜市の受け入れにより、大阪、横浜-上海の友好関係を深めることを目的に来日。当関西本部はロイヤルホテルで夕食懇談会を主催し、会員のメーカー、商社、銀行などの代表と、今後の上海市との貿易、特に工場改造について意見交換。

 

㉙ 1983年3月 陳慕華国務委員・対外経済貿易部部長らが来阪。
 一行9名が木村理事長、西山磐理事(大阪瓦斯会長)らとロイヤルホテルにて懇談。席上、当関西本部は当面の日本の中国からの輸入促進上望まれている諸問題について中国側への改善要望を文書で提出し、陳国務委員は「帰国次第すぐ研究して返答する」と表明した。

 

 

㉚ 1983年3月 姚依林副総理と懇談する木村理事長。
 「1983年日本医療器械展覧会」の展覧団長として開幕式を主宰するために訪中していた木村理事長は、団員と共に人民大会堂にて姚依林副総理と懇談。
 姚副総理は同年4月に来日し、東京、大阪を訪問。中国経済の運営方針や日中経済協力問題について政府及び財界の首脳と懇談するとともに、日本経済の高度成長の基盤となった科学技術の振興、人材養成などの問題について日本の専門家と意見交換し、鉄鋼、自動車、電気、繊維などの産業を視察した。

㉛ 1983年6月 楊波軽工業部部長が来阪し、歓迎会を開催。
 当関西本部と日本国際貿易促進協会の共同受け入れで、「中国軽工業代表団」(11名)が来日。9日~23日まで東京、大阪に滞在し、通産大臣、関係団体、金融機関を訪問し、単品取引、各種の経済・技術協力を発展させるための視察を行った。9日の来阪時、ロイヤルホテルにて当センターが歓迎会を主催。

 

 

㉜ 1984年9月 李鵬副総理らを招き、当センター創立30周年記念行事を開催。
 9月7日、創立30周年に際し、中国から李鵬副総理、王耀庭中国国貿促主任ら15名を迎えてロイヤルホテルにて記念行事を開催。約500名が出席。上枝会長が式辞。
 李鵬副総理の講演会「中日経済技術協力を拡大し、両国の共同の繁栄を促進しよう」を開催。

㉝ 1985年6月 「中国シルク公司訪日視察団」歓迎会で挨拶する王明俊総経理。
 当センターの受け入れで、標記視察団(7名)が来阪。歓迎レセプションにて関西の繊維関係者と懇談。

㉞ 1985年8月 魏富海大連市長と懇談。
 8月5日、広島で開催された「第1回世界平和連帯都市市長会議」に出席した魏富海大連市市長一行3名が、広島、長崎、大阪、東京を訪問。事務局に来訪し、木村理事長らと懇談した。

 

 

 

㉟ 1986年3月 朱鎔基国家経済委員会副主任と懇談する木村理事長。
 第7次五ヵ年計画や今後の日中貿易の拡大などの諸問題について話し合いを行うため、木村理事長が3月12日~21日まで訪中。万里副総理、王震中日友好協会名誉会長、薄一波中国国貿促名誉主任、宋平国家計画委員会主任、呂東国家経済委員会主任、陳希同北京市市長らと懇談した。

 

㊱ 1986年9月 袁宝華 国家経済委員会副主任らが来日。
 9月27日に大阪で、30日に東京で開かれる「21世紀日中経済シンポジウム」プロジェクト商談チームの団長として、当センターの受け入れにより来日。26日に歓迎パーティを主催。
(写真は81年のもの、中央が袁宝華氏)

㊲ 1988年7月 「中国軽工業部代表団」が来日。
 団長は曹憲林軽工業部部長。当センター及び日中経済協会の受け入れにより、7月12日~22日まで来日。軽工業部が中国に設立する金型センターの合作促進など日中両国間における軽工業の合作促進のため、関係者と意見交換を行った。

㊳ 1989年8月 大阪にて「中国輸出商品展覧会」を開催。
 8月7日~11日、中国国際商会(中国国貿促)が主催、当センターの受け入れ協力にて標記展覧会を開催。大阪での開催は87年に引き続き2回目で、展示面積は2,300㎡、出展者は17省104社、展覧団員数は260名と、第1回の倍以上となった。郭東坡中国国貿促副会長は開幕挨拶にて「2か月前の暴乱(天安門事件)は平定され中国は平静さを取り戻している。海外での展示会の開催に影響はない」と述べた。開幕式後のレセプションには400名以上が参加した。

㊴ 1989年10月 木村会長、江沢民国家主席と人民大会堂で単独会見。
 木村会長は国際信託投資公司(CITIC)の創立10周年記念行事に参加するために訪中していた。木村会長は江沢民国家主席とは、旧くから親交があり、今回以外にも公式・非公式の単独会見を数多く行った。

 

 

1980年、周建南氏(第一機械工業部部長・当時)を挟む江沢民氏と木村会長

 

 

 

 

1990年1月 鄒家華国務委員の歓迎会を開催。
 外務省公賓として、鄒家華国務委員・国家計画委員会主任一行14名が来日。1989年7月の「アルシュサミット」以来凍結されていた政府高官接触の再開第一号であった。当センターは18日の来阪時、ロイヤルホテルにて関西経済8団体と歓迎会を共催、約200名が出席。甘子玉国家計画委員会副主任、鄭鴻業中国国貿促会長などが1月16日~25日まで東京、大阪に滞在した。(前列中央が鄒家華国務委員)

㊶ 1990年10月 「日本繊維機械業界訪中代表団」を派遣。
 紡織工業部、中国国際貿易促進委員会の主催による「第2回中国国際繊維機械展覧会」(CITME)が10月15日~21日に北京にて開催された。1988年の第1回に引き続き、日本からの出展は当センターが取りまとめ、メーカー13社、商社11社が参加し、展覧団員数は約100名となった。

 当センターはこれに合わせて「日本繊維機械業界訪中代表団」(団長:木村会長)を派遣。呉文英紡織工業部部長、王曾敬副部長らを招き、長富宮飯店でレセプションを開催した(左下、前列左四が呉文英部長)。
同展は2年に一回の開催で、当センターは、2006年の第10回まで日本側の出展取りまとめを行った。2000年の第7回開催時には、「『日本館デー』日中業界代表者会議」を開催した。

㊷ 1991年5月 李嵐清対外経済貿易部部長らとの昼食懇談会を開催。
 通産大臣の招聘により、5月8日に対外経済貿易部一行7名が来日。来阪時の11日、関西経済8団体は昼食懇談会を開催。第8次五ヵ年計画など中国の経済政策などについて意見交換を行った。

㊸ 1991年5月 顧秀蓮化学工業部部長らとの歓迎晩餐会を開催。
 当センターの招聘により、5月22日~31日まで化学工業部訪日団(7名)が来日。東京、広島、岡山を経由して来阪。当センターはロイヤルホテルにて歓迎晩餐会を主催し、木村会長、会員の化学工業関連会社の代表10名が出席。第8次五ヵ年計画と十ヵ年計画期に入った中国の化学工業発展の方向について意見交換した。一行は29日、ダイキン工業㈱淀川制作所など2箇所の工場を訪問した。(左二が顧秀蓮部長)

㊹ 1991年8月 「大阪中国貿易展覧会」を開催。
 8月6日~10日、中国国貿促の主催、当センターの受け入れ協力により大阪で開催。中国国貿促が大阪で開催する総合展は、87年、89年に引き続き3回目で、約100社が出展し、250名が来日。開幕式では王守茂中国国貿促副会長らが挨拶。5日間の来場者数は約2,000人、実質成約額は6,000万ドル弱となった。

㊺ 1991年11月 当センター友好商社部会華南経済視察団を派遣。
 友好商社部会設立25周年に当たり、細井馨理事(千曲産業㈱社長)を団長とする標記視察団(10名)が、11月12日~19日、上海、寧波、厦門、深圳を訪問。中国経済の開放政策のリード的役割を果たす華南経済圏の現状を視察。各地の中国国貿促分会、指導部門と日中貿易に関する問題点や各地の投資環境について懇談したほか、上海浦東地区、外貨調整センター、会員企業の合弁工場や100%外資企業の視察、銀行支店や経済技術開発区・工業区、深圳の保税市場を訪問した。

1992年~2001年

第三部: 社会主義市場経済の発展に伴い日中の往来が益々活発化

 1992年1月~2月にかけて、鄧小平氏は武漢、深圳、珠海、上海などを訪れ、経済の改革・開放を進める声明を次々と発表した(いわゆる「南巡講話」)。これに呼応する形で、同年10月、中国共産党第14回大会にて、「社会主義市場経済」の基本方針が決定し、翌年3月には憲法に明記された。中国のGDP成長率は、92年に88年以降最高の14%となり、以後、二桁成長が続く。

 この間、江沢民国家主席をはじめとする国家要人が次々と来日し、来阪時は当センター等で歓迎会を行った。当センターは、引き続き日中双方の代表団を派遣・受け入れを行ってきたが、92年以降の特徴として、中国各地の投資誘致セミナーの開催が増加したことが挙げられる。90年代初めは上海、広東、江蘇などの沿海部が中心であったが、90年代後半になると遼寧、黒龍江、湖北などの東北地方や内陸部のセミナーも開催。各地の投資環境を会員企業らに広く宣伝した。

 日本で開催される展示会も定着し始め、安徽省、浙江省、四川省、上海市などの商品展示商談会は毎年開催された。現在も開催している江蘇省輸出商品展示商談会、山東省輸出商品展示商談会、AFF(アジアファッションフェア)もこの頃に第1回が開催された。

① 1992年3月 呉文英紡織工業部部長らが事務局へ来訪。
 10日に来日し、15日に来阪。17日に木村会長らと事務局で懇談した後、ロイヤルホテルにて歓迎懇談会を開催。在阪の繊維関連企業の代表50名が参加して中国の繊維産業について意見交換を行った。

 

 

 

② 1992年5月 雷任民対外経済貿易部及び中国国貿促特別顧問らを招聘。事務局にて懇談。
 3団体・企業が日中民間貿易開始40周年を記念し、慰労をかねて招聘。肖力夫人、林連徳元対外経済貿易部副局長らが同行。雷氏は50年代初期に対外貿易部副部長として対日貿易の促進に多大に貢献された日中貿易の中国側長老で、この時83歳。一行は5月11日~24日まで、東京、京都、大阪などを訪問・観光した。

③ 1992年5月 木村会長が万里全人代常務委員会委員長らを招き懇談。
 5月31日、ロイヤルホテルにて対中投資について懇談。中国側は万里全人代常務委員会委員長、曹志全人代常務副秘書長、符浩全人代外事副主任、徐敦信外交部副部長らが出席。日本側は木村会長や日向方齊関経連名誉会長、宇野収関経連会長らが参加し、日本の対中投資について懇談した。

 

④ 1992年6月 栄毅仁中国国際信託投資公司会長らを招聘。
 日中国交正常化20周年記念事業の一つとして、楊鑑清夫人らと共に日本へ招待。栄氏は関西への来訪機会が少なかったため、6月14日から1週間大阪に滞在し、関西財界人との交流、関西国際空港の視察などを行った。そのほか、京阪神、奈良を観光した。

 

⑤ 1992年7月 李長春河南省省長らが来日。
 東京で「河南省投資環境説明会」を開催するために来日。当センターが後援。説明会では、河南省を含む内陸の対外開放について具体的な状況が紹介された。(左一が李長春省長)

 

 

⑥ 1992年9月 姫鵬飛元国務院副総理が来阪。
 日中国交正常化20周年記念行事の一つとして、9月23日~10月18日まで東京で「周恩来展」が開催され、同展の開幕に参加するため姫鵬飛元国務院副総理を団長とする許寒冰夫人ら一行12名が来日。25日に来阪し、ロイヤルホテルにて歓迎レセプションが開催された。

 

 

 

 

 

⑦ 1994年5月 王瑞祥中国紡織品進出口総公司総裁が来阪。
 5月9日~12日、同公司が主催、当センターが後援する「中国紡織品進出口総公司貿易商談会」が大阪で開催され、王瑞祥同公司総裁を団長とする一行60名が来阪。

 

⑧ 1994年9月 北京にて「’94国際化学工業展覧会」を開催。
 9月16日~21日、化学工業部、中国国貿促が主催。中国化学工業界最大の展示会で、今回が2回目。当センターは日本企業14社の出展取りまとめを行った。また、同展覧会に合わせて「日本化学工業界訪中代表団」(団長:木村会長)を派遣。17日に顧秀蓮化学工業部部長を訪問した。

 

⑨ 1994年10月 栄毅仁国家副主席らが来阪。
 10月28日から日本政府の受入れにより来日し、11月2日に来阪。楊鑑清夫人、郭樹言国家計画委員会副主任、徐鵬航国家経済貿易委員会副主任、謝麗娟上海市副市長、叢正龍遼寧省副省長、王夢奎国務院研究室副主任、王英凡外交部部長助理らが随行。木村会長がロイヤルホテルにて歓迎夕食会を開催し、佐治敬三サントリー㈱会長、山田稔ダイキン工業㈱会長、三好俊夫松下電工㈱会長らと懇談。
cap:新大阪駅で出迎える木村会長ら

⑩ 1995年2月 「上海市経済貿易展示商談会」を開催。
 2月27日~3月3日まで大阪で開催。当センターが後援。本商談会の前身は80年代から大阪で開催してきた「上海市服装商談会」で、今回から改称して総合的な商談会となった。団長は苗耕書上海市対外経済貿易委員会副主任で、計130名が来阪。

⑪ 1995年7月 聞世震遼寧省省長らが来日。
 聞世震遼寧省省長を団長とする一行11名が外務省の受入れで来日。木村会長がロイヤルホテルで昼食会を開催。遼寧省は80年代から大阪に日本事務所を開設しており、この時は張喜柱首席代表が随行した。

 

⑫ 1995年11月 江沢民国家主席が来阪。
 16日~19日、APEC’95大阪会議が開催され、江沢民国家主席が非公式首脳会議に参加するために来阪。大阪で木村会長をはじめとする関西の経済団体のトップと、関西経済界と中国経済界の交流の成果及び今後の展望について懇談した。

⑬ 1996年5月 回良玉安徽省省長らが来阪。
 5月14日~17日、安徽省対外経済貿易委員会の主催、当センターの協力にて「安徽省対外経済貿易展示商談会」を大阪で開催。回良玉省長一行10名が来阪し、木村会長が歓迎昼食会を開催した。14日には「安徽総投資環境説明会」も開催された。

⑭ 1996年9月 孫平化中日友好協会会長が来阪し、懇談午餐会を開催。
 8月下旬、東京で自民党関係者と懇談するために来日。4日に来阪し、ロイヤルホテルにて木村会長ら経済界のトップとの懇談午餐会が開催された。41年に亘り一貫して日中関係の仕事に専念された孫会長(写真右)の堪能な日本語で、日・中・米をめぐる自由闊達な意見交換が行われた。

 

 

⑮ 1997年12月 木村会長が北京にて胡錦濤中国共産党政治局常務委員・書記処書記と懇談。
 木村会長が単独訪問し、人民大会堂で胡錦濤中国共産党政治局常務委員・書記処書記と懇談。人事交流強化などについて率直な話し合いがなされ、この模様は中国全土で放映された。

⑯ 1998年5月 当センター訪中代表団を派遣。
団長は木村一三会長。5月4日~7日まで北京を訪問し、李嵐清副総理、唐家璇外交部部長、石広生対外貿易経済合作部部長、周永康国土資源部部長らと懇談。朱鎔基新内閣の有力者を通じ、中国経済の最新の認識を深めた。また、参加会社はそれぞれ日中経済合作プロジェクトや事業構想を中国側に提起し、その具体化を図った。写真は唐家璇外交部部長(右三)。

⑰ 1999年9月 当センター訪中代表団を派遣。李鵬全人代委員長らと懇談。
 団長は三好俊夫会長で、計21名が厦門と北京を訪問。厦門では「第3回中国投資貿易商談会」の開幕式に参加し、北京では李鵬全人代委員長、呉儀国務委員らと懇談。外資誘致・技術導入政策や対外通商政策に対する諸要望を提出した。(写真は李鵬全人代委員長/前列左六)

⑱ 1999年12月 木村名誉会長が江沢民国家主席と非公式に懇談。
木村名誉会長が訪中し、江沢民国家主席と非公式に懇談。日米安保の新ガイドラインにより生じている日中間の暗雲を一掃する必要性を提言した。
(写真は左から、木村一三名誉会長、江沢民国家主席、王毅外交部部長助理)

 

 

2002年~2014年

第四部:WTOに加盟し、急成長を遂げる中国とともに

~日中の人やモノの往来を活発化し、現場・現実に沿うサービスを展開~

 2001年12月、中国は正式にWTOに加盟した。中国のGDPは二桁成長を続け、経済は急速に発展。2010年にはGDPが日本を抜き、世界第2位の経済大国となった。日本からの対中投資は、製造業からサービス業にシフトし始め、同時に中国からの走出去(海外進出)も拡大し、日本に進出する中国企業も日に日に増加。両国間の経済貿易関係は新しい発展段階に入った一方で、島の問題等の課題も噴出。現在も有効な解決方法が模索されている。

また、中国は2008年には北京オリンピックが、2010年には上海万博が開催されるなど、世界規模のイベントも成功させた。日中両国は、2002年末のSARS(重症急性呼吸器症候群)、2008年の四川大地震、2011年の東日本大震災など感染症や自然災害にもさいなまれたが、その都度、相互援助を惜しまず、協力してこれらの対処に当たった。

 当センターの事業としては、90年代に引き続き企業の進出支援、投資誘致セミナーの開催協力、技能実習生の受け入れ、展示会の開催協力などに注力するだけでなく、現地事務所を増設。現在、北京市、上海市、遼寧省大連市に事務所を、山東省青島市、山西省太原市にデスクを構え、それらを活かした活動・事業を展開している。

① 2003年8月 谷井会長が「日中平和友好条約締結25周年祝賀レセプション」に参加。
 中日友好協会の宋健会長の招きにより北京を訪れ、胡錦濤国家主席(左写真)、呉邦国全国人民代表大会常務委員会委員長(右写真)と懇談。

 また、万季飛中国国際貿易促進委員会会長(左写真)、王岐山北京市市長代行(右写真)らを訪問した。

 

 

 

② 2003年7月 アリババ・ドット・コムの馬雲(ジャック・マー)CEOが事務局へ来訪。
 阿里巴巴(中国)網絡技術有限公司(アリババ・ドット・コム)の馬雲CEO(右)が来訪。アリババは当時でも世界最大規模のBtoBサイトを運営しており、2002年10月には日本語サイトを開設。当センターは当時から中国での引き合いの問合せがあった際、同サイトを紹介。馬CEOから同サイトの紹介を受けると共に、今後の日中経済協力関係について意見交換を行った。

 

 

 

③ 2004年4月 当センター創立50周年記念パーティーを開催
 中国駐大阪総領事館、当センター会員企業及び自治体、関係団体、中国関係機関の駐日事務所代表ら約150名が出席。

 

 

 

 

④ 2005年5月 大阪にて「北京市副市長 陸昊氏を囲む朝食会」を開催。
愛知万博への参加で来日した陸昊北京市副市長を迎え、当センター谷井会長の主宰で実施。北京市側からは工業促進局、投資促進局、商務局の各局長が陪席し、北京オリンピックの準備状況などについて紹介。

 

⑤ 2005年8月 瀋陽にて「第四回中国国際装備製造業博覧会」が開催される。
 「中国国際装備製造業博覧会」は、商務部や遼寧省人民政府が共同開催する設備製造業の専業展で、当センターは2002年から毎年協力を行っている。
 第4回(2005年8月30日~9月3日)は、谷井会長、井植基温副会長、青木理事長が一連の行事に参加。日本出展団を代表して谷井会長がテープカットに参加し、関連行事の「世界500大企業CEOフォーラム」にて講演を行った。第5回開催時には大田房江大阪府知事も参観した。

⑥ 2005年10月17日~21日 総勢150名の「関西経済界中国山東省訪問団」を派遣。
 2005年5月、谷井会長が山東省を訪問した際、同省政府より訪中団の派遣を提案された。当センターはこれを受け、10月17日~21日、大規模訪中団を組織。団長は西田健一副会長(丸紅㈱理事)で、家電・アパレル・食品などのメーカー、建設、商社、金融、物流、人材育成及び報道関係者など総勢147名が3コースに分かれて山東省の各都市(済南、臨沂、日照、煙台、威海、淄博、濰坊、青島)を訪問。孫守璞山東省副省長らと懇談し、当センターは山東省人民政府と「山東省経済貿易全面協力取組協議書」に調印した。(写真は右から西田団長と孫守璞副省長)

⑦ 2006年10月 中国輸出入商品交易会(広州交易会)第100回中国輸出商品交易会の100回記念行事に参加。
 1961年4月、第9回に友好商社25社が参加して以降、当センターは日本側の参加窓口としてインビテーション発行やホテル手配などを行ってきた。当センターからは西田副会長ら14名が参加し、開幕式や「第100回広州交易会記念及び中日貿易発展のシンポジウム」に参加した。

⑧ 2007年9月「第九回世界華商大会」で談笑する谷井会長と賈慶林全国政治協商会議主席。
 9月15日~17日に神戸と大阪にて開催。世界各地から3,600名の華僑が集結した。中国からは賈慶林全国政治協商会議主席が出席し、当センターも後援団体として谷井会長らが参加。

 

 

⑨ 2010年7月「日中経済貿易センター上海万博記念訪中団」を派遣。
 2010年5月1日~10月31日まで、上海市濱江地区にて「中国2010年上海万国博覧会」が開催された。出展者は192ヵ国、50の国際組織、中国国内31省及び香港、マカオ、台湾。大阪府・市は「大阪ベストシティ実践区」を出展し、「環境先進都市・水都大阪」をアピールした。2008年8月に「上海万博大阪出展実行委員会」が発足し、当センターはオブザーバーに就任。7月28日(なにわの日)のイベントに合わせ、当センターは7月27日~29日に谷井会長を団長とする標記訪中団(計26名)を派遣。

谷井会長は韓正上海市長と懇談。
7月27日に開催された「大阪・上海友好交流の夕べ」にて。

 

 

 

 

⑩ 2012年7月1日~5日 村山会長が日中国交正常化40周年記念「2012年関西財界訪中団」に参加。
 村山会長が副団長として参加し、中国と関西の交流強化を図った。人民大会堂にて習近平国家副主席らと懇談したほか、于平中国国際貿易促進委員会副会長、李朴民国家発展改革委員会秘書長、楊潔箎外交部部長、李金早商務部副部長、唐家璇中日友好協会会長らと懇談。

 

 

⑪ 2013年4月「ボアオ・アジア・フォーラム」が開催される。
 海南省博鰲市にて開催され、アジアを中心に政官財界の要人が集まり、習近平国家主席が基調演説を行った。村山会長は産業界を中心とした日本代表団の一員として出席。

懇親会にて王毅外交部部長と談笑する村山会長

 

 

 

 

⑫ 2014年3月「第16回中国山東省輸出商品展示商談会」を開催。
 「山東省輸出商品展示商談会」は、1998年の開催(第3回)から当センターが協力してきた。第16回は3月25日~27日に開催。山東省からホームファブリック、アパレル、日用品、文化製品の関連企業177社197ブースが出展。来場者数は約2,600名。村山会長が呂偉山東省商務庁副庁長らと会場を見学。

 

 

⑬ 2014年5月「第18回中国江蘇省輸出商品展示会」を開催。
 「中国江蘇省輸出商品展示会」は、1995年に第1回を開催して以来およそ10年に亘りほぼ毎年大阪で開催してきた。当初は軽工業品を出品していたが、2000年代後半からは繊維分野に特化している。第18回は、5月20日~22日、アパレル、帽子類、ホームファブリック、日用雑貨、靴類の関連企業168社226ブースが出展。来場者数は約3,000人。村山会長が朱栄江蘇省商務庁対外貿易処副処長らと会場を見学した。(写真は第13回の開幕式の様子)

⑭ 2014年9月「CFF」を「AFF(アジアファッションフェア)」に改称。
 中国のアパレル・繊維の専門展示会は、80年代から中国紡織品進出口総公司を中心に、様々な形態で開催されてきた。「CFF(チャイナファッションフェア)」の名前になったのは2003年からで、春に大阪、秋に東京で延べ20回開催してきた。今では日本最大級の繊維・ファッションOEM/ODM展示会となっている。“チャイナ・プラス・ワン”のニーズに応えるため、2014年9月開催時より「AFF(アジアファションフェア)」に改称。

 ⑮ 2014年9月 当センター60周年記念訪中団を派遣。
 9月15日~20日、村山会長を団長とし、総勢26人で北京、上海、張家界を訪問。外交部、商務部、国家発展・改革委員会、中日友好協会などを訪問し、中国国際貿易促進委員会于平副会長らと懇談した。(前列左五が于平会長)

 


以上、

※このページの内容は、当センター発行する会報誌「JCCマンスリー」60年記念冊子“60年のあゆみ”より抜粋したものです。
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